生れた意義と 生きる喜びを 見つけよう
4月は全国のお寺で「花まつり」が執り行われます。2500年前お釈迦さま誕生時、花は咲き乱れ、空から甘露の雨が降り注いだとの故事にちなんで、花で飾られたお釈迦さまの誕生仏に甘茶を灌いで誕生を祝います。お釈迦さまは釈迦族の王子として誕生しました。幼少より何不自由のない暮らしを送っていましたが、 「老・病・死」という誰もが避けて通ることのできない人生の根本問題に深く思い悩むようになり、王子の立場も捨てて、「老・病・死」を超える道を求めて修行し、さとりを開かれました。
「今月のことば」の人間に生れた意義と生きる喜びを明らかにしてくれるものは、「老・病・死」という事実です。このいのちをどう生きてゆけば、それらに煩わされない、満ちたりた歩みとなるのか。そのような生の依りどころ、死して帰るところを求め、そこに確かな道筋を示した歩みこそ、お釈迦さまの一生です。仏教はどのような境遇にあっても、自分の人生を自分の責任において生きてゆかねばならないことを教えます。私たちは得難い「いのち」を恵まれながら本当に「人間といういのち」 を生きているといえるのでしょうか。『大経』には、お釈迦さま誕生時に「吾まさに世において無上尊となるべし(私はこの世において、誰も代わることの出来ない、尊いいのちを賜り、全生命をかけて自らが取り組む課題や使命をあきらかにするために生まれてきたのです)」と語られています。これは全ての生きとし生ける人は尊い命をたまわって生まれているにもかかわらず、自分の尊ささえ忘れて生きている私自身に呼びかけられています。
「人間といういのち」を生きるとは、人間としての責任主体を明かにすることによって気づかされる「いのちの尊厳」への問いかけです。仏の慈悲の光に照らされることによって、ものの本質・真実を見定めていく身に育てられるのです。日米首脳会談において、日本のトップが他国を先制攻撃し国際社会を混乱に陥れたトランプ大統領に「世界中に平和と繁栄」をもたらすと称賛する姿に衝撃を受けました。本当に私自身を尊い存在だと受け止める時、他者を尊いと見ていけます。「いのちの尊厳」が軽んじられる「力の支配」が横行する現実を目の当たりにして、自らの人生を「何を依りどころに」生きてゆくのか。今まさに私の歩みが問われているのです。

