かんじんなことは 目に見えない 心で見なくちゃ 物事はよく見えない

咲いた花見て喜ぶならば、咲かせた根元の恩を知れ」といいますが、物事をありのままに見ているつもりでも、時として自分に都合のいいようにしか見ていないことがあります。見えるものは私が見たいもので、見えないものは私が見たくないものということもあるでしょう。また、私たちは目に見えるものに頼りがちです。経過よりも結果ばかり関心が向き、目に見える数値ばかりを追い求めてきました。その結果、目には見えない大切な事実が見えにくくなっているのです。見ているものが本当にものの本質であるのか。まさに肝心なことは見えてないのではないか。他者の心の痛みも目には見えません。「今月のことば」はサン・テグジュペリの『星の王子さま』の一節です。

友情や愛情、信頼といったものも目で見えませんが、確かに存在します。そしてそれらは心を豊かにしてくれます。食事ひとつにも命の繋がりを感じることができます。ものごとの本質を見ることは、確かな「智慧の眼」が必要です。そのためには心を育て、心の眼でものを見ることに心掛けなければなりません。だからこそ、仏法を聞くのです。仏さまのお慈悲(はたらき)も目には見えません。仏法に遇うことは、その大いなるお慈悲に導かれ、おかげさまのいのちを生かされていること、すべての物事が繋がっていることに驚きと喜びと感謝をもつ身にお育ていただくのです。目に見えるものに心を奪われ、肝心なことが見えにくくなってしまうことが人間の本質であるからこそ、仏法をご縁として「本当に大切なものは何か。目に見えるものだけがすべてなのか」といつも問い返す歩みが開かれてくるのです。

ロシアやイスラエルによる軍事侵攻を見ながら、あの弾薬はどこの国のものかを考えたことがどれだけあったでしょうか。本当のことを知ると胸が締めつけられる思いです。私たちは自分で正確にものごとを判断しているつもりですが、その目は自分の都合を優先する曇った不確かな目なのです。それが私の姿です。では、仏法に遇うと確かな自分になるかといえば、そうではありません。確かな自分になることができないからこそ、どこまでも迷い続ける自分であるからこそ、問い続けることが大切なのです。