僧侶であり、教育者でもある東井義雄師の詩集に次のものがあります。
雨の日には雨の日にしか聞かせていただくことのできない
言葉を超えたご説法がある
老いの日には老いの日にしか聞かせていただけないご説法がある
病む日には病む日のご説法がある
降る雨を疎ましく思うことは、雨によって自分の都合が悪くなることへの嫌悪であり、末通らないものを依りどころとして物事を判断している我が身の現実の姿といえます。雨は「私の思い(都合)」に合わせてはくれません。東井先生は思い通りにならない現実が仏さまからのご説法といただかれています。人生には自分の力ではどうにもできない難事に何度も出遇わなければなりません。そんな時に人生が行き詰ったと思うことがあります。しかし、本当に人生が行き詰ったのでしょうか。「今月のことば」のように、人生が行き詰まったのではなく、自分の思い(都合)が行き詰まっただけでなないでしょうか。雨の中にありながら、それを不都合とだけ受け止めて、受け入れる視点をもたない生き方は、人生を空しいものにしてしまいます。
キリスト教のシスターである渡辺和子さんの「私たち一人ひとりの生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリと開くことがあり、そこから冷たい隙間風が吹くことがあります。それは病気であったり、大切な人の死であったり、他人とのもめごと、事業の失敗など、穴の大小、深さ、浅さもさまざまです。その穴を埋めることも大切かもしれませんが、穴が開くまで見えなかったものを、穴から見るということも、生き方として大切なのです。(中略) 宗教というものは、人生の穴をふさぐためにあるのではなくて、その穴から、開くまで見えてこなかったものを見る恵みと勇気、励ましを与えてくれるのではないでしょうか」との教示には多くの学びをいただきました。このことをあらためて心に留めて、何があっても現実から目をそらさず、引き受け、前向きに生きてゆきたいものです。その私をいつも見守っていてくださるはたらき(仏さま)とともに。

