
桜の季節を迎えました。春は雨がよく降り、満開の桜も、その雨で散ってしまうことが多いように思います。しかし、調べてみると、他の季節に比べて、決して降雨の頻度が高いわけではないようです。桜の花を少しでも長く愛でていたいという思いが、雨がよく降るように感じさせるのでしょう。
この季節に叔母が往生して4年になります。あれから桜の花を見るたびに、「花びらは散っても花は散らない」という仏教学者の金子大栄の言葉が脳裏に浮かんできます。この言葉には「形は滅びても人は死なぬ。永遠は現在の深みにありて未来にかがやき、常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる。その永遠の光を感ずるものはただ念仏である」と続きます。
「倶会一処」という相遇う永遠の世界があるからこその受け止めですが、これは単に「死んだ先があるか、ないか」というような次元とは異なるお念仏のお育ての中に智慧の眼を開かれた世界で初めて語り合えるものです。
「形は滅びても人は死なぬ」という言葉は、決して神秘的なことではなく、本当の意味での人との出遇いを表しています。人は死んでも終わりではなく、「存在のはたらき」といただき続ける世界があるのです。ここを出発点として,私たちはどのような「いのち」を生きているのかを考えていかなければならないのです。「いのち」について真剣に考えさせられるとき、「散らぬ花」とは何か、ということが、大きな問いとして身に迫ってきます。
恩師のご尊父が、90歳でご往生される間際に、往診に訪れたご尊父の同級生の老医師が「ご老院、あともうちょっとだぞ。わしもあとから行くからな」と耳元で囁かれ、それに対して病床のご尊父がうなずいた、という話を伺いました。お念仏のお育てにあずかった人生は、いかに悲しい別れを迎えても、どれほど理不尽に死が訪れても、浄土に生れるという一点において再び相遇う世界があるのです。それは現在において永遠(真実)に触れる体験でもあるのです。