新年を迎えました。浄土真宗中興の祖、 蓮如上人は御文章(お手紙)の中で、「ただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなおかなしむべし」と、仰せになっています。時の流れの速さを驚きながら、ただ虚しく年を取るだけの人生ならば、それは嘆いてもなお悲しむべきものなのでしょう。

「年」という字には「実り」 という意味があります。人間、一番確かなことは年を取るということです。「ああ、年を取ったなぁ」と愚痴もこぼれますが、「また 今年も新たな実りをいただいたなぁ」と受け止めれば、随分違った意味付けができます。

上偈の「杖のことば」は、禅僧の一休さん(一休宗純)の道歌です。道歌とは、宗教的、道徳的な教訓をわかりやすく詠んだ短歌のことです。

昔は年を数えるのに、誕生日ではなく元日に皆一斉にひとつ年を加えました。正月に家の入口に立てる門松は正月を指しています。ひとつ年を加えることは人生という死に向かってゆく旅(冥土の旅)がひとコマ(一里塚)進んだという意味です。

そして、その人生という旅には馬や駕籠などの乗り物はなく、自分の足で歩かなければなりません。それは、どんな状況でも自分の責任で生きているということです。また、人生という旅には立ち止まる宿はありません。「二年も入院する破目になって、 人生にぽっかり穴が開いてしまった」というような虚しく過ぎたと感じるひとコマも、記憶から消し去りたい過去も、空白の時間ではないのです。「自分の都合というものさし」 を外せば気付くのです。時間は常に流れ、常に何かに出遇いながら、新たな実りをいただきながら時間は流れていくことに。

新年に「おめでとう」と言い合いますが、何がめでたいことなのでしょうか。 仏教は、それは死に左右されない確かなもの(仏の願い)に出遇うことだと教えます。死は最も現実から遠ざけたいものでしょう。新年というひとつの節目だからこそ、この一大事を後回しにせず、人世無常のこの身の事実を深く心にとどめて、生きることの意味と本当の喜びを仏さまに訪ねてゆきたいものです。