
「座辺師友」という言葉に出遇いました。北大路魯山人の言葉です。これは仏教の教えに重なるもので、「ほんもの(優れた人や物)に囲まれて生活するならば、その心をおのずと学びとることができる。そうすると、周りのすべてが、大切な気づきを与えてくれる師となり友となる」という意味でしょうか。
それはまた、杖のことばの「本当のものがわからないと、本当でないものを本当にする」 に重なるものです。本当のものがわからないと、本当でないものを本当にします。それは自分のものさし(我執)を本当にするということです。自分のものさしは自分の都合で判断しますから、ものを正しく判断することはできません。しかも、この自分のものさし(我執) は根が深く、簡単には取り除けません。
聖徳太子は「世間は虚仮にして、唯仏のみこれ真なり(この世にあるものはすべて仮のものであり、仏の教えのみが真実である)」 と教え、親鸞聖人も「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と、この世のものには本当の依りどころになり得る真実はなく、世俗の価値観を超えた仏法を本当のものといただき、究極の依りどころとして、人生を正しく生きてゆけと教えられる所以です。最初は何が本当のものかわかりません。しかし、本当のものに出遇うと、少しずつ本当のものそのものに導かれて、本当でないものが教えられてきます。そしてそのひとつひとつの気づきが、本当のものに出遇うご縁であったと知らされます。本当のものに照らされてこそ、辛いことや悲しいことを始めとした生・老・病・死のすべての出来事が、 順逆、この人生のかけがえのない宝物(良き師・良き友)と受け止められるのです。私の人生には何ひとつ無駄なことはなかったとうなずく身にお育ていただいてゆくのです。
「何が本当に大切なのか、求めなければならないものは何か」がわかったとしても、 損か得かと目先のことに執らわれて、あくせく生きている毎日です。だからこそ、常に本当のものを終いの依りどころとしていつも自身を問うことが大切なのです。