
今月の「杖のことば」は中島みゆきさんの「糸」という歌の一節※です。私たちは、人間に生れ、さまざまな事柄と関係を結びながら生活し、そしていつか死んでゆかねばなりません。その自らの人生をどう意味付けしてゆくことでしょうか。
「正信偈」に「修多羅に依って真実を顕わす」と示されています。「修多羅」はお経を繋ぎ止める紐・糸のことで、織物の〈経糸〉を意味します。お釈迦さまの教えを永遠に繋ぎ止めるものという意味から、次第に「お経(真実の教え)」を指すようになります。
織物は〈経糸〉に〈緯糸〉が絡んで模様を作りだします。〈経糸〉は表面には現れませんが一貫して〈緯糸〉を支えています。それは空間に時間を織り込まれてゆく人生そのものにも譬えられます。対義語的な対立軸として「世の中は〈経糸〉と〈緯糸〉でできています。仕事という〈経糸〉と家庭という〈緯糸〉のバランスを大切に」というスピーチで耳にすることがあります。しかし、仏教は運命などというものは説きません。逢うべき人に逢えたから仕合わせになるのでも、夢が叶うから仕合わせになるのでもありません。自分にとっては都合の悪い出会いも、思い通りにならないことも人生にはたくさんあります。本当に遇うべき〈経糸〉は、この世の価値観(自己中心的な執着心)を超えた真実の教え以外にありません。そのような〈経糸〉に出遇うならば、〈経糸〉を依りどころとして心を育てて、人生の如何なる困難も引き受け、乗り越え、いただいた出遇い(出来事)をすべて宿縁として喜ぶ身にお育ていただく歩みが開かれてきます。
そのような生の依りどころを求めてゆかれたのが、本願念仏の歴史です。私たちのご先祖も、人生のそれぞれの場面で自分自身をみつめ、仏法を添えたつ杖=〈経糸〉として生きてゆかれました。その場その場の自分の思いに縛られ、振り回されるばかりの生活では、結局空しい人生になってしまいます。〈経糸〉の導きに遇い、人生のすべての出遇い=〈緯糸〉を織り込んだかけがえのない無上の喜びと感謝に満ちた1枚の織物(人生)に出遇えるのです。それが〈経糸〉=仏法(仏さま)をいただくということです。
(※中島みゆきさんの「糸」の歌詞では「逢う」という漢字表記ですが、法話に意味合いから「遇う」と表記しています)