私の「ものさし」で 問うのではない 私の「ものさし」が 問われている

 「今月のことば」は、SNSに投稿された寺院の掲示板の写真の言葉から選ぶ『輝け!お寺の掲示板大賞2021』にて「笑い飯哲夫賞」を受賞したものです。この言葉を選んだお笑いコンビ笑い飯の哲夫さんは、仏教に造詣が深く、近年お笑い番組の審査員をつとめることもあり、この言葉が心に刺さったそうです。

 仏教の教えは、他者の行動やあり方を問うためのもではなく、自分の「ものさし(価値観)」が問われてゆきます。人は経験を糧とし、学びを深め、無意識にも答え(ものさし)をもつことを求めます。そして、ともすればその答えを絶対化してしまうものです。そんなときこそ、教えに遇い、自分の「ものさし」を問う姿勢が必要になるのです。今まで、無意識に正しいと思い込んでいた自分の「ものさし」が、自己中心の「ものさし」であったということに気づかされます。もし、それを怠れば、時として人を傲慢にし、ものを正しく判断することを阻害してゆきます。さらには、問い返すことなく、初めから自身の「ものさし」を確かな答えとして絶対視してゆくならば、それは慰めやごまかしにはなっても、生きることの本当の意味に目覚めてゆく真実の歩みとはなりません。

 大切なことは、自分の学びが、自分の歩みを通して、「これこそが答えだ」「これこそが求めるべきものだ」と受け止め、握りしめてきた答えの中に不確かさを内包しているという事実に立ち続けるということです。しかし、それに気づかされたからといって、自己中心の「ものさし」を捨てさることは出来ません。ただ、自己中心の「ものさし」しか持てない自分であったと知らされた時、そこに違った生き方が生まれてくるのです。

 人生は自分の積み重ねてきた経験と学びによって身につけた答えを「ものさし」として、数多の苦難に対峙します。しかし、仏法は、その「ものさし」は確かなよりどころにはならない。私の「ものさし」が常に問い返されてゆく歩みとひとつになって、そこに本当に確かなものに出遇えることを教えています。しかしまた、「ものさし」を問うとは言いながら、そのことがまた私の「ものさし」でなされてゆく限り、いつでも問い返しの中に身をおくことこそが、真実の歩みであることを聞法によって知らされるのです。