沿革

HISTORY

西林寺の開創は、応永2(1395)年、真言宗の僧、霊巌(河野正勝)が諸国を行脚中に坂町にとどまり、お堂を建て、「塔半寺」と号したことに始まります。

仏教の宗派の内、広島に早く広まったのは真言宗です。それは真言宗の開祖、空海が中国で学んだ土木学を生かして、弘仁12(821)年、讃岐の満濃池を改修し、その功によりこの地に神野寺を創建し、中国・四国地方を行脚したことに由来します。以来、多くの真言宗の僧がこの地方を行脚して、自らの修行の場として、お堂を立てました。

霊巌が本尊として安置した鋳造製の大日如来像は代々安置継承されていますが、これは現存する創建時代に関わる唯一の什物で、坂町指定文化財されています。それ以外、浄土真宗に改宗されるまでの200年間の記録は伝えられておりません。それは真言宗が大衆向きであったといっても、僧侶は世襲制ではなく、本山からの派遣という形態をとるため、浄土真宗のように地域の民衆と密接に繋がることは少なかったからなのでしょう。

塔半寺は、当時のこの辺りの地名である「塔ノ岡」とちなんで名付けられたようです。200年後、道羽の時に浄土真宗に開宗し、慶安3(1650)年、道明の時に森山が藩の御用山林になり、在来の樹木を請い受けて寺地を移転しますが、その時代に境内にあったと伝えられているモッコクの木は、坂町指定の天然記念物として、今も大切に保護されています。

西林寺は文禄4(1595)年、道羽の時に浄土真宗に改宗しました。これは16世紀中頃から台頭し、興隆を極めた毛利一族の庇護の下、蓮如上人が広めた「お寄り講」の普及により、浄土真宗の信者が地域内に急激に増えてきたことに起因します。

江戸時代になると、幕府の統治政策として一つの村には一つのお寺が必要とされ、西林寺は寛永2(1625)年に寺号申請が了承され、正式に西本願寺の末寺になりました。慶安3(1650)年に寺地移転をし、その時に寺号を「西林寺」と改称し、元禄元(1688)年、現在地に寺地を再移転しました。

 14世紀南北朝時代の初め、熊谷蓮覚が築いた矢野城(発喜城)に、文安2(1445)年、尾張国の野間重能が入城します。野間氏は大内氏と結びつきながら、その勢力は現在の海田町周辺から呉市、更には音戸の瀬戸まで及びますが、弘治元(1555)年、毛利元就に滅ぼされます。その時、野間氏は降伏したにもかかわらず、一族郎党は城外に出され、山麓の菩提寺で首を刎ね、皆殺しにされるという悲惨な歴史がありました。

西林寺が寺地を移転して、40年も経ない元禄元(1688)年に再移転したのには、このような時代背景に基づく地域住民の要請があったと考えられます。

 西林寺寺族の墓地に、野間家の墓石が残されていることも、お寺のある地域を「刎条」と呼ぶのも、この歴史に由来するものです。

西林寺が現在地に移転して50年も経たない正徳6(1716)年に本堂が再建されます。享保18(1733)年には梵鐘の寄進があり、鐘楼も建立されます。この鐘楼は創建か再建かは不明ですが、この頃に寺院としての設備が整ったようです。また、それから50~60年後にも本堂が再建された記録があります。詳細は不明です。

明和9(1772)年には、親鸞聖人の御生涯を顕した御絵伝(4幅の御影)が本願寺より下附されています。この御影は浄土真宗で一番重要な行事である「報恩講」に本堂の余間に4幅を並べて安置します。4幅並べると、2間(畳2枚分)の幅が必要なことを考慮すれば、この頃すでに今の本堂と同じ規模の本堂が造立されていたことになります。

西林寺の歴史は、昭和30(1955)年の本堂の焼失もあり、記録されたものが寺内にも地域内にもあまり残っておらず、伝承の中にも不確かなものが含まれていますので、ここまで大まかなことだけお伝えしています。西林寺の開基は文禄4(1595)年、浄土真宗改宗時点の道羽です。しかし、道羽が僧侶だったのか、村内のお寄り講の代表だったのかも定かではありません。庄屋孫助と同一人物ではないかという説もあります。道羽に続く記録に名前の残る道明・存立との続柄も、その間に他の住職が存在したのかも不明です。まとまった記録は、普厳(1775~1835)によって記録されたものによるところが大きいのですが、そこにも「往時悠々忽ニ決シカタシ後人コレヲ校セヨ」と記されています。そこで現在は、(1813)年に普厳によって記録された寺内過去帳によって、相承が明らかな存立を初代住職として歴代の系譜を綴ります。 

初代「存立」・2代「恵教」・3代「恵空」・4代「恵讃」・5代「恵満」・6代「恵陳」・7代「恵見」・8代「普厳」・9代「僧肇」・10代「道宣」・11代「恵照」・12代「普行」・13代・「普現」・14代「行道」・15代「庫蔵」・16代「行昭」 

    

 

 普厳は大瀛の勧めにより、第7世恵見(1757~1825)の嗣法(新発意)として入寺し、その娘と結婚しています。その後、恵見には男子が誕生(第9世住職僧肇)しますが、普厳が第8世を継職します。

この時代に本堂再建(1814)、鐘楼再建(1821)、経蔵創建(1830)等、立て続けに伽藍が整備されます。

普厳勧学と大瀛和上

西林寺の山門をくぐって境内に入ると左側、鐘楼の手前にふたつの墓があります。当山第8世普厳とその師匠で身命を賭して真宗念仏の法義を護ろうとした広島で一番有名なお坊さんである大瀛和上の墓です。

普厳は安永5(1776)年に音戸大橋の近く現在の呉市警固屋町に生まれ、16歳の時、音戸の法専寺で得度剃髪しました。その後、大瀛に師事し、その学寮で学びました。21歳の頃、大瀛の勧めで当山に入寺しています。

この頃より京都の本願寺では、後に「三業惑乱」と呼ばれる真宗教学史上最大の擾乱が惹起しました。これは全国を二分する大騒動になり、この時にいち早く糾明に立ちあがったのが大瀛を初めとした芸備の学匠です。普厳は結核を患っていた大瀛に付き添い、騒動解決に尽力されました。

 大瀛(1759~1804)は筒賀村に生まれ、5~6歳で四書五経を暗誦したと言われています。7歳から近隣の西方寺義諦に仏法を学び、11歳で得度します。報専坊(寺町)慧雲に師事し、その学寮甘露社に入り、大瀛と改名。18歳で上洛し、真宗教学の中心機関である学林で研鑽を重ねます。20歳で帰国してからは数カ所の寺院の住職を務め、寛政6(1794)年に広島城下に学寮を設立して数多くの子弟を育てました。ここで普厳は大瀛に師事します。

 その頃、学林の最高責任者(功存と智洞)が浄土往生のためにはこれまでより積極的に自らの三業(身と口と心)で仏にタノム必要性を主張します。それに対して、大瀛は多数の書物を著して反論します。これが後に江戸幕府が介入することとなる、本願寺史上、類を見ない大騒動の三業惑乱です。

三業惑乱では、従来の浄土真宗の法義を受け継ぐ大瀛側は古義派、学林側が新義派と呼ばれました。本山のみならず地方の末寺も巻き込んだ大混乱となり、転派する寺院もありました。もともとは法義上の問題でしたが、享和3(1803)年には新義派の数百名が本山に乗り込み、それに対して古義派が学林を占拠する大騒動に発展し、とうとう幕府の裁断を仰ぐこととなります。

古義派の代表である大瀛は結核を患っていましたが、普厳に付き添われ、京都所司代そして江戸寺社奉行所まで赴き、新義派の代表である智洞と論争を繰り返します。大瀛が古義派の代表として京都所司代に出廷の命を受けたときには、同門の道振・道岳と共に上洛し、江戸の寺社奉行所に出廷したときは、実乗が京都から同行しましたが、二度とも付き添うのは普厳だけでした。

尋問が始まると、病身の大瀛の給仕に心を尽くすと同時に、学説補佐の大任も務め、大瀛が起居扶持を要することから法廷に陪席することを許され、病状の悪化に伴い、大瀛に代わって弁論することも許されました。大瀛は結核が悪化し、裁決を待たず、文化元(1804)年に逝去します。普厳は大瀛の逝去後の後始末の一切を執り行い、実乗と共に遺骨を抱えて帰国しました。時に29歳でした。翌年には幕府の裁定が下り、古義派の主張する法義に落ち着きますが、本願寺も百日間閉門を命じられる厳しいものでした。そして翌文化3(1806)年、本如宗主の御裁断の御消息が発布されて、この騒動は終結します。

 本願寺の危機といわれた三業惑乱は、終結までに長い年月を費やしましたが、これにより、安芸の国の真宗寺院の僧侶は、真摯にみ教えに向き合い、甘露社で研鑽を積んだ大瀛をはじめとした俊僧は、今度は自身が私塾を開設し、そこで学んだ門弟も自坊で、後進の育成のため、私塾を次々と設立してゆきます。「徳星、安芸に集まる」といわれ、それらは「芸徹」と呼ばれました。

香川南浜の『秋長夜話』に「此ノ国ハ一向宗(浄土真宗)盛ニシテ郡中村々一向門徒ニアラザルハナシ」と記されるように、「安芸門徒」と呼ばれる地域にみ教えが根づいた「真宗王国」が誕生します。

 普厳のもとにも、江戸復命後まもなく、遠近各地から教えを請い、百有余人を数える門弟が集います。その育成にあたること29年の長きにわたりました。その中でも、肥前(現在の佐賀県・長崎県)からの門弟が多く、境内には研鑽道場「松川館」と学寮(寝食の場)が建設されていました。

 「諸国の同志より芸州の芿園和上(大瀛)を正法護持の大将の本陣」と崇められた大瀛の功績は、その後の安芸地方の法義発展に多大な影響を与えました。仏教の研鑽を志す多くの僧俗のために、多くの学寮が創出され、仏教書籍の保管のために造営された経蔵の数は、他の地方のお寺では類を見ないほどです。

 大瀛没後、その所蔵する遺書(大瀛が遺した書籍)は、末代の法義繁盛を願った大瀛の遺志に従い、散逸することなく、その弟子に引き継がれました。まず大瀛の開いた学寮の寮頭である道命(三高・徳正寺)・道振(本郷・寂静寺)を経て、その没後、学頭であった西林寺普厳のもとに引き継がれ、西林寺の経蔵内で今日まで管理されています。

安芸門徒の土徳は、大瀛や普厳等の芸徹の弛まぬ法義研鑽によって育まれたものです。その遺書については、「大瀛所持之書籍並講録類 已後其寺之為 宝物永代ニ被致守護如実ニ修学出精可有之者也 学林役所」と、本願寺より西林寺に永代所蔵が許可され、経蔵に大切に保管されています。経蔵の扉には、み教え(経典・書籍)が永遠に引き継がれることを願って、『仏説無量寿経』の一節、「特留此経 止住百歳」が刻まれています。              

普厳は、三業惑乱採決後も、しばらくは騒動の後始末としての執筆に精進され、それが一段落した37歳の頃、当山住職を継職されます。住職として最初の事業は本堂の再建でした。文化11(1814)年に完成した7間4面の荘厳な本堂の屋根瓦は京都より取り寄せられ、1枚1枚和紙で包装されて運ばれてきました。それは現在の本願寺の屋根瓦の十倍相当の高価なもので、今では求めることはできないそうです。そのような大普請によって建立された本堂は、百年以上経った昭和22(1947)年に9間4面に増築した際も、屋根瓦は葺き替えの必要を迫られませんでした。

この本堂で隔日のお晨朝(お朝事)が勤まり、多くの村民がみ教えを聞く環境が整いました。やがて常朝事となり、天保6(1835)年、61歳にて逝去する日までご法耕の日々を勤しまれました。

  自身教人信の足跡を簡単に辿ってみますと、文化14(1817)年には「国法御用掛」を拝命され、文政3(1820)年には、本願寺において安居附講を任され、『正信偈』を講義されました。文政9(1826)年には「司教」に拝命され、安居副講『往生論註』を講義されました。この頃に住職を僧肇に譲り、隠居の身として、自らの宗学研鑽と子弟の育成、そしてお朝事後の隠居部屋での村内民衆との御示談を核とした生活を送られました。

天保2(1831)年には、学階の最高位である「勧学」(広島で4人目)を拝命、翌年には安居秋講に『正信偈大意』を講じ、「年預勧学」として本願寺に常勤され、「諸国安心取締役」の大任を拝命されました。冬講に『十二禮』、春講に『二巻鈔』、本講の講義は『入出二門偈』でした。

 「三業惑乱」という浄土真宗史上最大の内紛は、同派の僧俗にとっては生命以上に重要なご法義の問題でした。そこに身を置き、後に最高学位の勧学に輝くエリート僧侶ともいえる普厳は、村内民衆とは距離を置く存在のように思われますが、その人となりは温厚で、「生き仏様」とも崇められていながら、お朝事後でのご法話とその後、隠居部屋にて御示談を行うことを日課とする、民衆に寄り添う人物であったと伝えられています。

 明治44(1911)年、本願寺より生前の功績に対し、次の追贈を拝受しました。

遵正院普厳

畢生を宗学の研鑽に委し、宗義混乱の秋に際し、至誠己を忘れて大瀛を扶護し、終始師訓を奉じて相承の教義を光闡せし功少なからず、仍て今般特別賞與條例第一條一種二等を追贈す。                龍谷寺務 釋鏡如

墓碑等は次のように複数建碑され、そのご遺徳が顕彰されています。

 大瀛和上

  • 京都大谷本廟墓所
  • 東京築地本願寺境内
  • 山県郡安芸太田町筒賀支所そば
  • 可部勝円寺境内
  • 西林寺境内

 普厳勧学

  • 京都大谷本廟新勧学谷
  • 西林寺境内

近代150年史

普厳没後以降の西林寺は、僧肇・道宣が法灯を護り、明治以降の近代150年は恵照・普行と継承します。恵照は明治5(1872)年に34歳で住職を普行に譲り、本堂を教場に充てて「坂村西基館」と称し、村民子弟の教育にあたります。西林寺では、それ以前より寺小屋で村民子弟の教育を行っていましたが、百姓の勉学には消極的であった幕末の政策もあって、限定的なものでした。西林寺本堂が教場であったのは1年間でしたが、以降も恵照・普行・普現と村民子弟の教育に注力を注ぎます。これが現在の坂小学校の前身です。

 明治40(1907)年7月の大水害では、小学校の校舎が壊滅的な被害(児童中死者9名)を受け、1年間学年毎の分散授業となり、西林寺本堂でも授業が行われました。その後も、大正後期より戦火が激しくなる昭和16(1941)年まで日曜学校(森谷日曜学校)が開設され、情操教育の先駆けとして幼児教育に積極的に参画します。

また、第12世普行が明治14(1881)年に31歳で逝去してから、嗣法である普現が住職継職するまでの間は、川尻の光明寺に入寺していた普行の兄である明厳と明厳に続く光明寺の次期住職に西林寺の住職代務をお願いすることになります。

 そのような不遇の時期にあっても、普厳以降地域に根付いた真宗念仏の法義は隆盛を極め、西林寺は「目の下三千軒」と称され、3000戸に迫る檀家を抱える安芸屈指の大坊になります。普現は安芸北組組長をはじめ、大正9(1920)年より2期8年、本願寺の総代会衆(国でいう代議士)を拝命し、大正12(1923)年には、白無紋法衣終身着用を許され、備後教区菅事就任・門主代行として和歌山・兵庫両県下を巡回されました。昭和2(1927)年には、本願寺特選会衆を拝命されました。 

戦時中の梵鐘の供出を免れたのも普現の苦心によるものですし、光明寺(川尻)・西福寺(仁保)・龍仙寺(府中)の住職を兼務される等、精力的に活動されました。

 また、この時代、岩井・篠原・渡邊・岡田・山根といった、今でも年配の皆さまのご存じの優れた法務員(役僧)が、西林寺の教化護持を支えました。

 普現の弟、行縄は副住職として、普現を補佐する傍ら、西林寺から離れた小屋浦地区のご法義繁盛のため、小屋浦に西林寺支坊(現西昭寺)を設立します。

 普現の半世紀にわたる住職在任中には、鐘楼以外のほぼすべての建物が改修されます。昭和22(1947)年には、参詣者の増加に対応するように七間四面の本堂を九間四面に拡張する大事業も完遂されます。

また、大正10(1921)年に、大谷尊由御門主代行の御巡回(随行長松島善海)がありました。この時、帰敬式受式(法名をいただく儀式)を希望する門信徒が、当山本堂から中村地区の入り口まで長蛇の列をつくりました。昭和20(1945)年にも勝如門主の御巡回が計画されましたが、戦局の悪化にともない中止となりました。

 普現は勧学普厳に次ぐ当山中興の傑僧です。昭和24年に往生されますが、その功勲により特授二等が追贈されました。