世人 薄俗にして 共に不急の事を争う
教えをわかりやすく伝えるために、お経には数多の譬え話が説かれています。その中に「荒野をさまよっている旅人が、突然、巨像に襲われ、何とか逃げ出し空井戸に駆け寄り、そこに垂れていた一本の藤のツルにつかまり降りてゆきました。安心した旅人が、ふと底を見ると恐ろしい毒をもった龍が大きな口を開けていました。驚いて途中で止まり、まわりの崖に足をかけようとしましたが、そこには毒蛇がいて今にも襲いかかろうとしています。旅人はこの藤のツルだけが命綱だと、必死にそれにしがみつき、ぶらさがりました。ところが、井戸の口のところに黒と白の二匹の鼠が現れ、かわるがわるそのツルの根を噛み始めました。旅人はツルを噛み切られないように、ツルをしきりに揺さぶりました。すると、ツルの根元にあった蜂の巣から数滴の蜂蜜がこぼれ落ち、偶然にも旅人の口の中に入りました。その蜜が何とも言えない甘美な味で、それからというもの旅人は眼前に迫っている恐ろしい現実を忘れ、ただ落ちてくる蜂蜜をもっと口に入れようと、しきりにもがき始めた」というお話があります。
この「旅人」とは人生という旅をしている私のこと。「巨象」は時間の流れで、「井戸」は人生を譬えています。井戸の底の「龍」は、私を待ち構えている死の影。「毒蛇」は人間の命をむしばむもの、「藤ツル」は人の寿命で、「二匹の鼠」が不断に命の綱をかじっているというのです。そして「蜂蜜」は日常的な欲望です。
これを笑うことができるでしょうか。ロシアの文豪トルストイは『我が懺悔』という書物の中にこの話を引用して、「すべての人間に理解されるべき、生きた不可抗的(不可避的)な真理」と表現しています。私たちは「本当に大切なものは何か。何を求め、何を目指して生きねばならないのか」ということに気づいても、いつの間にか目先の楽しみ(欲望)に埋没して振り回される毎日です。「今月のことば」は、まさに人間の本質を教えています。だからこそ、お仏壇に手を合わせる生活が大切になるのです。お仏壇を心の鏡として、目先(不急)の事に埋没し振り回される自身と向き合う、振り返りの反復の中に身を置き続けるところにこそ、真実の歩みが開かれてくるのです。

