杖のことば(聞思録)
世の中を受け継いだ時より
少しでもよくするように
そして後の人に残せるように
東日本大震災以降、10年余の間に、恩師の死や複数の大切な人の死、そして西日本豪雨から新型コロナのパンデミックと、絶え間なく訪れたこれらの逆縁は、仏法を学ぶものとして、否が応にも「いのちの現実」の厳しさを深く突き付けられるものとなりました。還暦という節目の年齢を迎えたこともあるのでしょうか。「これまで計り知れないお育てをいただきながら、はたしてどれほど社会の役に立つ行いを為し得たのか。いただくばかりの人生ではなかっただろうか」という思いがいつも頭によぎり反省しきりです。
東日本大震災の復興を応援して制作された『花は咲く』という歌の中の「わたしは何を残しただろう」という歌詞に出遇って以来、ずっと「自分の人生は未来に責任がもてるような生きざまになっているだろうか」という思いが脳裏によぎるようになりました。私たちは連綿と続く生命の歴史の中にあり、その生命の遺産を受け継いだ存在です。そしてその遺産を次世代に引き渡す存在でもあります。受け継ぎ、受け渡す。その時、私たちは少しでも負の遺産を取り除いて次世代に受け渡せるでしょうか。
人類は100年にも満たない間に、欲望の赴くまま、自然を征服し、公害をまき散らし、その結果、環境汚染や気候変動を起こしました。それは目先の将来だけを問題にする浅はかな人間のあり方によって人類の生存そのものが脅かされる未来が迫っているとの警鐘でもあります。昨今、「SDGs(持続可能な社会を作るための開発目標)」とか「カーボンニュートラル(二酸化炭素を初めとする温室効果ガスの排出量から森林管理等による吸収量を差し引いて合計をゼロにすること)」というフレーズをよく耳にします。時間を区切ってのこの取り組みは大切なものではありますが、ここでは原発による「核のゴミ」の問題は未解決のままです。
仏法は個々の人生を教えに照らしながら、この世のあらゆる事象を相対化し、問い返しの中に生きてゆくことを教えます。それは知ることではなく、よく生きる道を教えるものです。「杖のことば」の「世の中を受け継いだ時より少しでもよくするように。そして、後の人に残せるように」という示唆の通り、やさしい地球環境と確かな生きる道筋を後世に受け渡したいものです。念仏者として、それがたとえ微力な営みであっても、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界をかえるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」と語った先人の志願を胸に刻んで歩んでゆきたいと思います。(2022年4月 寺報『西林寺だより』24号加筆転載)