親鸞聖人御誕生850年の祝う意義

京都本願寺において、3月29日より親鸞聖人850年・立教開宗800年慶讃法要がご修行になり、親鸞聖人の御誕生日である5月21日にご満座を迎えました。これから安芸教区・安芸北組、そして西林寺におきましても、慶讃法要と協賛行事が行われてまいります。

 親鸞聖人やお釈迦さまのような尊いお方の誕生を「降誕」という表現をします。生まれることを「誕生」といいますが、「誕」という字は本来、「うそ・欺く・偽る」等の意味をもちます。つまり「降誕」とは、うそ・偽りに満ちたこの世界に何らかの意味をもって降りてきてくださったという意味です。そのことを大切に受け止める時、これらの行事を勤めることは、単に親鸞聖人の御誕生とそのご労苦に感謝することにとどまらず、自身が生まれた意味をあらためて見つめ直すことによって、かけがえのないご勝縁となるのです。

 自身が生まれた意味をあらためて見つめ直すということは、生きるという自覚をもつということです。「杖のことば」の「生きるという自覚はつねに誕生の意義を問い続けること」はそのことを教示しています。生きていることの背後にある想像もできないほどの無量の因縁を仏法の智慧で知らされる時、無自覚に、ただ当たり前と思っていた私の分別思考の愚かさに驚かされます。私たちは生きていることを当たり前のことと考えて、その上で何か面白いこと、楽しいこと、得になることはないかと好奇心で周りをきょろきょろと見渡しています。ある哲学者はそのありさまを「市場に群がるハエ」と皮肉を込めて言っていますが、その分別思考が翻されることが求められているのです。そしてそれは仏法をご縁として「喜ばねばならんのに喜ぶこと、感謝することができません」という、自身を痛む、その感覚の中でこそ、誕生の意義を聞いていかねばならないと思う自覚に繋がってゆくのです。そこに自分を問うてゆく歩みが開かれてくるのです。

仏法を聞くことは問題のない人間になるのではありません。また、一般的には人生の意味などはないのかもしれません。しかし、ある心理学者の言葉に「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」というものがあります。たとえ、どんな困難な状況にあっても、自分の人生の意味は自分で決めることができるし、その困難を克服することができる。それは人生が思いのままになるということではありません。思い通りにならなくても、人生はすばらしいし、感謝に価することを仏法は教えてくれるのです。