「人間怱々として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず」とお聞かせいただいていますが、厳しい残暑にかまけて、不要不急の世事に埋没した日常を悔いる昨今です。標記の言葉にはいつもうなずかされます。まだまだ時間はあると思っている内に瞬く間に一年は過ぎてゆきました。一年だけなら取返しもつきますが、一年を空しく過ごすことは、一生を空しく過ごすことになりかねません。ましてや老少不定のいのちをいただいているのです。時の流れに心しなければなりません。

では、空過しないいのちを生きるとはどう生きることなのでしょうか。それは自らの苦悩をしっかりと引き受けて生きるところに開かれてくるものでしょう。人生はどうにもならない深い悲しみや大きな困難に襲われることがあります。「なぜ、私だけ」と思うこともあります。しかし、私よりも先に同じような悲しみや困難を抱えて、それをよく乗り越えてゆかれた人たちがいます。その人たちは何を依りどころに、それらを乗り越えてゆかれたのでしょうか。仏教は、地位や財産や家族さえも、一時的にそれらの状況を好転させてくれることはあっても、それはどこまでも局所的表面的な解決にしか過ぎず、本当の依りどころにはなり得ないと教えます。死を覚悟するような病に侵された時、地位や財産によって、死を少し先延ばしすることはできても、死から逃れることができるわけではありません。現実を引き受け、いただいたいのちを生き抜くことができる心を育くむ確かな依りどころは、仏法を除いてはありません。

仏法を依りどころに生きることは、深い悲しみや大きな困難を乗り越えることを通して、人生の意味に出遇うのです。空過しない人生とは、いのちをいただいた意味(人界受生の所詮)に確かな方向性を見出すことです。それはいつ死んでも「おまかせできる(大丈夫といえる)」いのちに育てられることでもあります。苦悩の中に仏さまからの促しを聞いてゆくのです。先人が示してくださった確かな道筋がここにあります。

今年を振り返りながら「もうひと月余りしかない」と思うのではなく、「まだひと月余りある」と受け止め、かけがえのない日常を生き切ることに思いを巡らしたいものです。