最近、昔のことがあれこれ思い返されます。本当に多くの皆さまにお育ていただきました。その中に、いつも「なんまんだぶ。なんまんだぶ。ありがとうございます。もったいのうございます」と、目に涙をためて手を合わせておられたご年配のお姿があります。現代の私たちの方が快適な生活をしていますが、たとえ不便であっても、日々を心豊かに生きていらっしゃるお姿でした。そこから「不服ばかり言わず、おかげさまと手を合わせて喜ばせてもらえ」と教えていただきました。それは手を合わせることを通して、この「いのち」を支え育んでいただいたご恩がわかる身にお育ていただくということです。「ご恩がわかれば、手を合わせて喜ばせてもらうよ」 と言う人もいるでしょう。しかし、そういう人ほど、知恩に一番縁遠い生き方をしているのです。知恩への気づきは、まず手を合わせることです。そこにこれまで気づき得なかったご恩が知られてゆきます。しかし、浅はかな独りよがりの人間の知恵では、一握りのご恩しか知り得ることはできません。知恩の感得には手を合わせることが肝要なのです。

仏法は自分のものの見方の不確かさを教えてくれます。「自分の価値判断を離れた、もうひとつのものさしを持て」と。「杖のことば」のセミのつぶやきは、まさに私たちのかけられた仏さまからの促しです。「セミの一生は短くて むなしいと決めつける人間 人間の一生こそ むなしくすぎてないかと 問いかける セミの声」と。

セミの命は1週間程度と言われますが、地中で数年間幼虫として成長し、成虫になってからも3週間程度生きます。そのセミの一生を私たちは勝手に短くてむなしいものと思ってないでしょうか。しかし、それはセミ自身の思いではなく、私たちの思い込みに過ぎません。セミの一生を勝手にむなしいと決めつけて、 自身の「いのち」の行く末に暗いこの身にこそ、 もうひとつのものさしを持つ必要性に気づかなければなりません。手を合わせる生活とは、今日までお育ていただいた数多のご恩を気づかせしめんと呼びかけ続けてある大きなお恵み(仏さま)に対して、心の眼を開き、この身の事実を感謝するということです。そこにほんとうの豊かな人生が開かれてくるのです。