
「不要不急の外出自粛」という言葉が、今夏の熱中症対策の一環としてまた耳にするようになりました。暑さに辟易として過ごしていると、いつの間にか今年も残り3カ月。「人間怱々として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず(人はあくせくと目先のことに振り回されて毎日を過ごし、知らぬ間に自身の命終が近づいてゆくことに気づかない)」とのお諭しの通りです。改めて今なすべき重要かつ緊急なことは何か、自問しなければなりません。それは効率的な行動を是とし、非効率なことを非とするのではなく、唯々過ぎたように思える日常の中に、意味を見出してゆく歩みでなければなりません。時間は目的のための手段ではなく、多くの恩恵と学びをいただくかけがえのない一瞬一瞬の連続です。仏法のお育てに遇うとそのことに気づかされます。
深い自己洞察により頭に角の生えた肖像画を描いてもらった妙好人の浅原才市さんの話は有名ですが、より深くは次のような側面もあります。今月の言葉の「折れてみて 初めて見えた鬼の角 折れた思いが また角になり」とは、「角」という自身の内面の姿(我執)に気づかされることが、自負心(新たな角)となってゆくところに、新たな我執を生む人間の心の危うさ、本質があることを教えています。同じく篤信家の榎本栄一さんは、この「角」を「うぬぼれ」と重ねて、「うぬぼれは木の上からポタンと落ちた 落ちたうぬぼれはいつのまにか また木の上に登っている」と表現されました。「角」も「うぬぼれ」も、仏法のお育ての中での気づきですが、その気づきは末通らないものでもあり、そこには気づいたという自負心に執らわれてゆく危うさもあるのです。
仏法のお育てをいただいても「角」はなくなりません。「ああ、そうか」という気づきも、それを無批判に是とするとき、その気づきは自負心と相まって変質してゆくかもしれません。自身の気づきが不確かなものかもしれないという視点を持ち続けること、この確かだと握りしめたものを相対化してゆくことこそ重要になります。この学びの中に、人界受生(いのちをいただいた)の確かな意味に出遇うのです。それは仏法をご縁として、聞思する(考える)ことを止めない生き方を通して気づかされるのです。

